人間は、やはり寄る年波には逆らえません。年月を重ね、年配者となり、どうしても外出して遠き墓地まで、なかなか行けるものではありません。若いご家族様には、若い方の考え方もあり、無理に墓所におさそいしても駄目な場合もあるでしょう。そのような時、私はいつも思うのですが、外出して墓所に行かなくても、自宅の中にある、おないぶつ(ご仏壇)に手を合わせて、思いを込めて声明を唱えたら、それで充分に心は届いていると思います。菩提寺に行かなくても、おないぶつに手を合わせるだけで、心は貴殿の先様に届いているのです。 「こころの菩提寺」本河 聞光
きのう、京都の「五山の送り火」が何事もなく終わりました。京の夏の終わりを告げる伝統行事には、毎年全国各地から、この頃は海外からも多くの観光客が来られています。地元の京都で生まれ育った私の思い出は、青春時代に、中学生や高校生の知人友人と連れ立って、送り火が行われる前日や前々日に、各山のふもとに行き、大きな薪の束を背中に背負い、また両手に持って、各山の山頂まで運び上げた思い出です。昭和の時代は、今のような運搬の機械もなく、すべて人力で運び上げていました。遥か昔、夜空を精霊の炎で焦がす京の風物詩「五山の送り火」が行われる前日に、友人と共に大きな薪の束を背負い、山頂の火床に運び上げたら、時刻はすでに夜となっていて、真っ暗な大文字山(東山如意ケ嶽)山頂から、京都の明るい街並みを眺めていた思い出があります。今でも精霊に、御霊やすかれと思います。 「こころの菩提寺」 本河 聞光
毎年、この時期になりますと、京都は「五山の送り火」のシーズンとなります。今夜も夜の8時に、京都は東山如意ケ嶽の大文字から点火されまして、次に妙法が点火、次に船形、そして左大文字、鳥居形と次々に各山から炎が立ち上がり、亡くなられた方々の精霊が、炎と共に、かの国へと旅立つ日となりました。 当方が高校生の頃は、アルバイトで昼間のうちに薪を山の上まで運んだものでした。体力のある大学生は、一人で薪を四束も背負い、大文字山に運び上げていました。全て今は昔の思い出です。今一度、お亡くなりになりました方々から受けた恩義、情を、今夜一人で思い返したくなりました。お亡くなりになりました方々を、他人事のように考えてはなりません。その道は、近い将来、自分自身が歩く道なのです。 「こころの菩提寺」 京都の琵琶法師、本河聞光
2018年も8月となり、残暑の頃となりました。8月中旬のこの頃となりますと、京都は東山五条にあります大谷祖廟には、お参りの方々が、たいそう多く来られます。お墓をキレイに拭き掃除して、線香、ろうそくに火をつけると心の中には、遥か時を越えて亡くなられた方々への思いが満ち満ちてくるでしょう。静かに手をあわせて、我が亡き人に何をお祈りになるのでしょうか。御高齢になり、お墓参りが出来なくなった方も多いのではないでしょうか。自宅で、また自分の部屋で静かに手をあわせて、祈るだけでも充分なお参りになります。 「こころの菩提寺」 本河 聞光
1879年の夏に、約400人の移民を乗せた船が、ハワイの港に着きました。その船に乗っていた一人の青年が、ポルトガルの古典楽器である「ブラギーニャ」を持っていました。この楽器の魅力的なサウンドに、当時のハワイの皆さんは魅了されたらしいです。のちにハワイ王国の、カラカウア王様や、リリウオカラニ女王様もウクレレでの演奏をされ、作曲もされています。有名な曲では、「アロハ オエ」があります。1898年アメリカに併合されたハワイは、流入してきたアメリカンミュージックと伝統的なハワイアン音楽が混在して、現在の魅力的なハワイアンソングを作り出しました。 今の私は、このウクレレをもち、音楽ボランティアとして活動をしています。 「京都の琵琶法師の TIME OUT」
小学校の頃から、バイオリンを専攻していまして、遥か昔の昭和30年代には、LPレコードを、両親は海外から輸入してくれていました。家の中には、膨大な量のLPレコードがあり、当時としては、めずらしい高価なステレオが、据え置かれていました。小学校に通う前の時間、当方は毎日、バイオリン協奏曲や、交響曲を聴いていました。しかし、大人になり、人前での演奏は、いつのまにかクラッシック曲ではなく、親しみがあり、穏やかな曲調のハワイアン音楽になりました。悩み多き現代人の心の中に届きやすい音楽のジャンルは、ハワイアン音楽であると思いました。 「こころの菩提寺」本河 聞光
子供の頃から、バイオリンを専攻していました。今でも当時使用していたドイツ製のバイオリンが、部屋の隅に立てかけてあります。当時、バイオリンの先生から、プロの演奏家のバイオリン協奏曲、交響曲を毎日、5時間位は聴くようにとアドバイスを受け、両親に頼み、外国から高価なLPレコードを多量に輸入してもらい、高価なステレオを据え付けてもらい毎日聴いていました。また京都公演をする、有名交響楽団のライブ演奏も毎回聴きに行きました。本当に両親に、恵まれました。私の青春時代、一番強く影響を受けた指揮者は、カラヤンでもなく、フルトヴェングラーや、カールベームでもなく、当時、京都市立交響楽団常任指揮者の、山田一雄氏でした。あの昭和の時代に、フルトヴェングラーや、カラヤンに勝るとも劣らない日本人の指揮者がいて、その指揮者のライブ演奏を毎月聴いていました。贅沢の極みでした。ちなみに、山田一雄先生は、関西圏ではあまり有名ではないかもしれませんが、日本のクラッシック界では、重鎮であり、孤高の天才指揮者でした。
先日、九州は鹿児島の住職のお話を聞かせて頂いたのですが、その御住職のお話ですと、昨今、高齢者の自殺が増えているとのことでした。住むところもあり、食事もできる状態でありながら、それでもなお、自殺を選ぶ高齢者が多いとのことでした。その御住職の考えでは、今の時代はお金がものを言い、介護サービスも、介助サービスも、高齢者が入所出来る老健施設も全て、お金がものを言い、全てにおいて今まであった日本人の精神性が消滅したと言いました。確かに、昭和の時代は、今より貧しかったが、間違いなく現代の日本人よりも、昔の日本人の方が豊かな精神社会、精神生活を送っていたように思います。豊かにはなりましたが、我々が失った豊かな精神社会は、もうどこにもないのです。
ここ、関西圏では、先日も中学生の女生徒が自殺しまして、同じ中学校の男子生徒も、少しあとで自殺した事がありました。男子生徒をよく知っている住職の方のお話を聞いていると、心が暗くなります。中学生の男子生徒のお葬式の時、その住職は、胸にこみあげるものがあり、お経を、しっかりと声明できなかったと言っていました。実に悲しい出来事です。このお話をされた住職は、そのお子様方が、苦しくてどうしようもなくなった時、手と手をあわせて、心をしずめて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えることが、習慣として出来ていたらと、悔やんでいました。実に残念な出来事でした。
日本が生んだ世界的なカトリック作家の遠藤周作氏は、作家という仕事を自分自身でつかみ取ったのでしょうか?世界中で販売されている彼の数々の書籍は、彼自身の計画の中で作られたのでしょうか?昭和の当時、遠藤氏は日本人として初めて、当時のローマカトリックの総本山であるバチカンで、法王と複数回、謁見を許されています。日本人では遠藤氏がはじめてでした。これも、彼自身が計画していたのでしょうか?私は思うのですが、遠藤周作氏の仕事はすべて、彼の神様からいただいたものではないでしょうか。遠藤周作自身が、これがやりたいと思ってやり始めた事など、一つもないように感じます。彼は朝に祈り、夕に祈る人生の中で、神の啓示、天の啓示 を聞き、そのようにして人生を過ごしたのではないでしょうか。遠藤周作氏は、いつも神様(キリスト教の神様と御母上様)の近くに行きたいと望んでいました。人間の勝手な願望や切望を捨てて、神様からの声を聞いて、そのように人生を進んだ作家ではなかったのかと思います。宗教は違いますが当方としても学ぶべき事が多々あります。 訪問読経奉仕の「こころの菩提寺」 

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