いろいろな書籍に仏教の開祖であるお釈迦様の生い立ちが書かれています。ほとんどの書籍には、お釈迦様は小国の王様の子供としてお生まれになったと書かれています。それは本当でしょうか?お釈迦様がお生まれになる遥か昔に、このインドの地にアーリア人が攻め込んできました。アーリア人は現在のイギリス人とほぼ同じ人種になり、彼らはインドの地に住んでいた原住民を支配していきました。さて、お釈迦様の種族は釈迦族ですが、この釈迦族は現在のネパール辺りにいて支配階級のアーリア人からみると辺境の弱小の民族になります。我々がみる仏教の文献ではお釈迦様の種族の釈迦族は、上から二番目のクシャトリアという階級となりますが、当時の支配階級のバラモン教の文献によりますと、釈迦族は上から四番目のシュードラという卑しい階級になるのです。たぶん、こちらの文献の解釈の方が正しいのではないでしょうか。 今から2600年も昔に、アーリア人の侵略に危機感を感じながら、お釈迦様は何を感じとったのでしょうか。当時のお釈迦様の立ち位置は、現代の我々と何ら変わらない庶民の立ち位置ではなかったのではないかと思います。 訪問お経奉仕「こころの菩提寺」
約2600年も前の事ですが、そもそもお釈迦様が、王様の道を捨て出家の道を選んだのは「生老病死」からくる苦しみから逃れたかったからでした。「生老病死」からくる苦しみは全ての人々の問題であり、貴方の問題でもありますし当方の問題でもあります。お釈迦様は修行や瞑想の中で「我」を取り除き、全ての執着から解放されて、涅槃を目指しました。この考え方は仏教の基本的な教えでもあります。この基本的な考えを詳しく説きますと「諸行無常」「諸行無我」「涅槃寂静」にいきつくのではないでしょうか。そして、この三つにあと一つを加える場合もあります。それが「一切皆苦」です。つまり、この世の中の事柄はすべて苦しい事だけであるという考えです。この四つを「四法印」といいます。この四法印、つまり「諸行無常」「諸行無我」「涅槃寂静」「一切皆苦」は、仏教の基本的な考え方となっています。お釈迦様が遥か昔に瞑想や修行の中で悟られたこれらの事柄を、我々もときとして深く考えてもいいのではないでしょうか。         「こころの菩提寺」
I like going to the FusimiInariyama.The nature in the FushimiInariyama is very beautiful.There are mountains,valleys, forests and streams. In the valleys are small a pond. I often think it would be nice to live on a banks of the pond. Sometimes I go hiking in the FushimiInariyama.It's a nice feeling to be in a mountain forest. The air is clean and it's very peaceful. If I hike to the top of FushimiInariyama, I can get a good view of the surroundings. 「こころの菩提寺」
お釈迦様の根本理念の一つに、縁起の法があります。縁起の法とは、皆様ご存知の通り因果関係の事です。必ず物事には原因がありその結果として結果があるという考え方です。例えば、桜の花がキレイに咲いた時、桜は勝手に咲くことは出来ません。その土地に栄養があり、立派な根っこからの栄養の吸収があり、太陽のサンサンとした光を浴びるという原因があり、やっと咲くのです。お釈迦様の考え方で説明すると、太い桜の幹や枝は(因)であり、それに働きかける栄養価のある土や雨や太陽の光が(縁)となるでしょう。そして、結果としてそこから咲くことのできた桜の花は(果)という事になります。この考え方が「縁起の法」の考え方なのです。別の言い方は「因縁生起」といいます。我々が日常生活の会話の中で縁起がいい悪いと言うその元の言葉は「因縁生起」なのです。私達は、ときとして自分は一人で生きているのだ!と思う事がありますが、この世の中の全ては、何らかの因縁があり、それにより生起が生まれるのです。だから、原因「因縁」を変えれば現在の貴方の在り方「生起」も変わるのです。永久に同じという事は、この世にはありません。「こころの菩提寺」
我々は、この人生の中でいろいろなものを見たり、聞いたり、触ったり、味わったりしています。身の回りのハッキリとわかる事柄だけを理解しているだけではありません。我々は、ハッキリとしないものまでも、時として感じ取ったりもできるのです。また、よく考えれば、体にはこの世を生ききることが出来る様に、全ての物が備わっているのです。そして、それらの機能は我々が知らぬ間に働いてくれています。この様な働きを、お釈迦様は「縁起」の力と説明されました。「縁起」は形も色も香りもありません。しかし、我々が到底はかり知ることの出来ない無限の力で、我々を見守り助けてくれます。古代インドでは、「アミターユス」と読んでいました。その言葉がインドから中国に伝わり「アミダブツ」つまり阿弥陀仏と呼ばれる様になりました。阿弥陀仏という御仏は、我々の命の源かもしれません。
我々を包む大自然は、四季折々にありとあらゆる生き物の命をはぐくみ、見守ります。アスファルト舗装の道路の道端にささやかに咲く雑草の花でも、大自然はつつましく可憐に、その花を咲かせるのです。親鸞聖人は、大自然そのものが御仏であると言っておられました。道端に咲く可憐な花も御仏から頂いた命を、御仏がなしうるままに、その命を輝かせているのです。人生は苦悩の連続かもしれません。しかし、だからこそ雑草の様な清い心で御仏から頂いた命を、輝かせてこの世を生きたいものです。今日、すぐに結論を出すような生き方ではなく、明日に結論を出す様な生き方がいいのではないでしょうか。
京都東山に、知恩院という大寺院があります。ご存知の通り、法然上人を開祖とする浄土宗の総本山です。当方は、2歳の頃より父親の背中におわれて、知恩院さんのお朝事法要に上山していました。さて、法然上人は、膨大な書籍やお経を読む中で、中国の高僧である善導が示した「観無量寿経」の中の念仏である「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切であると考えました。それ以外では、日蓮上人は、「法華経」の中の「南無妙法蓮華経」を毎日唱えることができれば、仏になれると考えました。時代をさかのぼると、最澄や空海もお経の読書家でありました。 遥か昔から、多くのお坊さんが真理を求めて苦しみながら、争って多くのお経を隅々まで読みあさりました。その様なことを考えるに、お経には、とても大きな力があるのではないかと思う様になりました。 私は、毎日お経をあげられるこの身を、有難く思うのです。
The ongoing social unrest from the end of theHeian Period (AD794-1185) strengthened people's desire for salvation. Buddhist religious sects which met such desire were born in the Kamakura Period.(AD1185-1333) Honen started the Jodo Shu Buddhist denomination and taught that whoever believed in the Amida Buddha and earnestly chanted a Buddhist prayer would be saved. Honen's disciple Shinran(1173/05/14-1263/0 1/19)took the teaching even further and spread it as the Jodo Shinshu .
人の命には長い命もありますし、短い命もあります。また、長い人生を過ごす中で、命がなくなる多くの場面を見るにつけ、命には限りがある事を知ります。 若い方でも御高齢者の方でも、もうこの人生を止めようと思うことはあるでしょう。しかしながら少し感じて欲しいのです。 人として命をもらって生きてきた事が、どれ程有難い事なのか、また、どんなに素晴らしい事であるのかをです。 あなたの命は大自然の恵みである「不可思議」な働きで偶然にも、この世に生まれました。 これをお釈迦様は「縁起」と説明されています。 先祖代々に受け継がれてきた命は、我々の力では、どうする事もできません。 お釈迦様がお話になる「縁起」というものに我々の人生は振り回されているのかもしれません。 しかし、もしそうであるのなら我々の人生というものは、自然の恵みである「不可思議」からの、お計らいによるものと達観して生きていけば良いのではないでしょうか。苦しく悲しく、もがき苦しむ人生(命)であっても、あなたの命は、大自然の恵みである「不可思議」の働きで偶然にも、この世に生まれたことを忘れないで下さい。 「こころの菩提寺」本河聞光
人間は、やはり寄る年波には逆らえません。年月を重ね、年配者となり、どうしても外出して遠き墓地まで、なかなか行けるものではありません。若いご家族様には、若い方の考え方もあり、無理に墓所におさそいしても駄目な場合もあるでしょう。そのような時、私はいつも思うのですが、外出して墓所に行かなくても、自宅の中にある、おないぶつ(ご仏壇)に手を合わせて、思いを込めて声明を唱えたら、それで充分に心は届いていると思います。菩提寺に行かなくても、おないぶつに手を合わせるだけで、心は貴殿の先様に届いているのです。 「こころの菩提寺」本河 聞光

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