訪問お経奉仕の「心の菩提寺」

我々は、この人生の中でいろいろなものを見たり、聞いたり、触ったり、味わったりしています。身の回りのハッキリとわかる事柄だけを理解しているだけではありません。我々は、ハッキリとしないものまでも、時として感じ取ったりもできるのです。また、よく考えれば、体にはこの世を生ききることが出来る様に、全ての物が備わっているのです。そして、それらの機能は我々が知らぬ間に働いてくれています。この様な働きを、お釈迦様は「縁起」の力と説明されました。「縁起」は形も色も香りもありません。しかし、我々が到底はかり知ることの出来ない無限の力で、我々を見守り助けてくれます。古代インドでは、「アミターユス」と読んでいました。その言葉がインドから中国に伝わり「アミダブツ」つまり阿弥陀仏と呼ばれる様になりました。阿弥陀仏という御仏は、我々の命の源かもしれません。
我々を包む大自然は、四季折々にありとあらゆる生き物の命をはぐくみ、見守ります。アスファルト舗装の道路の道端にささやかに咲く雑草の花でも、大自然はつつましく可憐に、その花を咲かせるのです。親鸞聖人は、大自然そのものが御仏であると言っておられました。道端に咲く可憐な花も御仏から頂いた命を、御仏がなしうるままに、その命を輝かせているのです。人生は苦悩の連続かもしれません。しかし、だからこそ雑草の様な清い心で御仏から頂いた命を、輝かせてこの世を生きたいものです。今日、すぐに結論を出すような生き方ではなく、明日に結論を出す様な生き方がいいのではないでしょうか。
京都東山に、知恩院という大寺院があります。ご存知の通り、法然上人を開祖とする浄土宗の総本山です。当方は、2歳の頃より父親の背中におわれて、知恩院さんのお朝事法要に上山していました。さて、法然上人は、膨大な書籍やお経を読む中で、中国の高僧である善導が示した「観無量寿経」の中の念仏である「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切であると考えました。それ以外では、日蓮上人は、「法華経」の中の「南無妙法蓮華経」を毎日唱えることができれば、仏になれると考えました。時代をさかのぼると、最澄や空海もお経の読書家でありました。 遥か昔から、多くのお坊さんが真理を求めて苦しみながら、争って多くのお経を隅々まで読みあさりました。その様なことを考えるに、お経には、とても大きな力があるのではないかと思う様になりました。 私は、毎日お経をあげられるこの身を、有難く思うのです。